NHK大河ドラマ「光る君へ#48物語の先に」は最終回、キリスト教暦1027年まで一気に進みました。
おりしも房総半島で暴走した「平忠常の乱」(たいらのただつねのらん)が勃発しますが、伊藤健太郎さん演じる「双寿丸」ならぬ「梅寿丸」という常陸介(ひたちのすけ。≒茨城県知事)平維衡(たいらのこれひら)の息子(前回紹介した平為幹、平為賢の兄弟や紫式部の従姉妹「筑紫の君」とは同じく従兄弟)との争いが発端だったとする地方の史料もあるようです。
『源平物語』では前回「紫式部と平氏の意外な関係」にふれましたが、今度は「清少納言と源氏」について物語りたいと思います。
「光る君へ」では、吉高由里子さん演ずるまひろ(紫式部)が、ファーストサマーウイカさん扮するききょう(清少納言)と再会を楽しんでいました。
ただし、史実は清少納言(せいしょうなごん)にもやはり兄弟の悲しい出来事がありました。
ちょうどその十年前の1017年、清少納言の兄弟である清原致信(きよはら・むねのぶ)が殺害されてしまったのです。
白昼15時ごろ、花の京都の六角・富小路(三条京極の西南)辺にあった自宅にいたのですが、警察といえる検非違使(けびいし)等が、ちょうど、帝(みかど10歳)の石清水八幡宮への行幸の警備護送等で、出払っていた虚を突く形で、襲撃し取り囲んだのは騎馬武者7~8名、徒歩十数名の一団、結局、当局の捜査追及で摘発され、主犯は源頼親(みなもとのよりちか)でした。
清原致信は、この時「前大宰少監」(さきのだざいのしょうげん)。「監」は九州二島を総督する大宰府(だざいふ)の三等官で「大・少」(おほい・すない)がいました。
31年前に肥後守(ひごのかみ。≒熊本県知事)として赴任した亡き父=清原元輔(きよはら・もとすけ)の縁だったのか。あるいは姉妹清少納言が宮仕えした皇后藤原定子の弟で『枕草子』(まくらのそうし)にも登場する藤原隆家(ふじわら・たかいえ)が大宰府の長官となり、2年前から赴任中ですが、うまくいかなかったのか、清原致信は、和泉式部(いずみのしきぶ)の夫で藤原道長(ふじわら・みちなが)の家司(ケイシ)だった藤原保昌(ふじわら・やすまさ)の郎党に成り下がっていました。
『古事談』(こじだん)によれば、清少納言はこの時すでに出家し尼さんになっていて、致信宅での惨劇現場に居合わせ、巻き添えになりかけたため、得意のはやい機転で、自ら衣服をまくりあげて、女性であることを示して命を奪われずに済んだというのです。
もっとも、源頼親の兄=源頼光(みなもとよりみつ)の命令でいわゆる「頼光四天王」(ライコウしてんのう)たちの犯行だったとか、詳細は不明であり、
尼僧といっても瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)さんたちのように、男性(僧)と同様に完全に剃髪するとは限らず、現代女性の長さもありましたし、「光る君へ」では、十年後なら還俗(げんぞく)し、髪もすっかり伸びたとの想定でしょうか。
問題は、ここでいう「源氏」です。は源頼朝(みなもとのよりとも)や源義経(みなものとよしつね)兄弟、足利尊氏(あしかが・たかうじ)たちのご先祖です。
前回もふれた『蜻蛉日記』を書いた藤原道綱ノ母の父=藤原倫寧の従兄弟頼親、頼信兄弟。平維衡は叔父満快の婿で正輔も従兄弟。源vs平とかというより親族の一人。当時は摂関家で明らかなように父系男系より実際は意外に母方のつながりが重要でした。
「平正度=藤原蔵規」説など、次回以降、物語っていきます。