gamepay’s diary 源平日記

『源平物語』など徒然なるままに

わかれであいとイエ?バレンタインデーにショーモンコーキ

処刑された命日が古代ローマの「出会い系」💕」2025年2月16日(日)2:16 予定投稿

 

今週のお題「自分の好きなところ発表会」

わたしがいま、好きなのは、やっぱりこれです。

はてぶを始めて、そろそろ二か月ですが、もっともっと、広く、みなさんと共有・交流していけたら、と思っています。

 

 

別れで愛と・・・・

 

一昨日は、Saint Valentine Dayでしたyoね。

 

実は元々、悲しい惜別の日といえるのです。なんと、処刑され、神に捧げる生贄とされた(ために)(人に列せられた司祭の)ウァレンティヌスの命日。

 

古代ローマの「出会い系」は、やはり「カラオケ」

といっても、「空(から)の桶(おけ)」でのくじ引きで男女のカップルが決定されていたのだとか。

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2月14日というのは、最高神ユピテルギリシア神話のゼウス。ジュピター)の正妻「神々の女王」で「結婚と家庭」の守護神ユーノー(6月・ジューンブライドの由来。ギリシア神話のヘーラー、ヘラ)をまつる日で、

男性との出会いを希望する女性たちがチョコレートではなく、各自の名が書かれたお札を桶に入れて、翌日の豊穣のルカペリア祭りに、その桶から男性たちに、くじを引かせる形式で決められたペアで過ごす事ができる風習があった、

のに  ↓

兵士については士気が下がるからと、皇帝クラウディウス二世ゴティクスが禁止

しかし ↓

ウァレンティヌスが内緒で結婚させ続けたため、西暦269年、祭の生贄として死刑になった、

という伝承を

逆にキリスト教が公認され、国教となり、ローマ古来の神話・信仰を含め、異教を排斥し始めた5世紀の皇帝ゲラシウス一世の代、この祭を禁止する際に、若者の反発回避のため、宣伝し、キリスト教の祭日へと「歴史修正」布教したようで、

 

東方の正教会では、男女の愛等とは関係なく、また、処刑はだったり、

西方ローマバチカンカトリック教会でも、現代は正規の祭日から除外したとのこと。

 

ただし、日本においては、重要な人物の命日でした。

 

「新皇」将門の決起:「親皇」源平藤橘から新興「将門」誕生へ

どの教科書でも必ず書かれているように、「新皇」を称し、関東八か国を制覇し、独立政権を創建した平将門(たいらのまさかど)公で、「旧暦」の2月14日、従兄の平貞盛とその外叔父藤原秀郷、別の従兄弟(祖父高望王の外孫)藤原為憲たちにより、戦死しました。

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当時は噴火や気候等の影響もあり、単に軍事→武家(独立)政権へ、というだけでなく摂→関。で家格位職業…の固定化>新興武門へ

 

「将門」すなわち「軍兵を将(ひき)いる武門」といっても、平安の時代でした。

それまでの物部~石上氏や大伴氏、東漢(やまとのあや)~坂上氏、藤原氏では特に式家が軍事で活躍し、武官だけでなく、公卿にも昇格したのと比べると、及びもつかない地下(じげ)の士大夫で五位~四位どまりでした。

も武より多少は益しなものの、当代一の学者でさえ同様で、直近の源氏も近親・姻外戚とした道長摂関家を頂点とする摂関氏の独占状態となるのです。

改めて、実力才能が有れば、摂関藤原氏以外でも登用し始めたのが「院政権」とされる後三条帝の皇統で、文では特に大江氏、武では(公卿は六波羅一家以降の武家政権「幕府」まで皆無でしたが)源平が抜擢されていきました。

 

うろこがらキラめく着物で、ソーセージをかじるまいこは~ん💕

「鱗文様のきらめく着物で、ソーセージをかじるまいこは~ん💕」
2月9日(日)2時9分

 

本日は、「ふく」⇒

「服の日」

「大福→和菓子の日

「河豚(鍋料理)の日」

 

「にく」⇒「お肉の日」

…とゆーことで。。。。

 

今週のお題「最近見つけたかわいいもの」

 

「眼からウロコ」「お魚くわえた…」「舞妓Haaaan!!!」ならぬ、鱗文様のきらめく着物で、ソーセージをかじるまいこは~ん💕

 

日本では、仏教などの影響で、「摂政」ならぬ「殺生(せっしょう)」、とくに哺乳類~「四つ足」の動物のお肉を食べることは、忌み避けられてきました。

 

最近は逆に、西洋でも、肉食どころか、卵、魚、牛乳も避けたり、動物愛護の活動も流行っていますね。

 

340年ほど前、元禄(げんろく)頃の、徳川綱吉(とくがわつなよし。江戸幕府第五代将軍)の「生類憐みの令」はテストにもテキストにもよく出てきて、かつて「天下の悪法」という汚名が見直されているようですが、

さらにずっと前の平安時代から、「殺生禁断」や「放生(ほうじょう。捕らえていた魚や鳥などを解き放ち、命を救う)」が盛んにおこなわれていました。

 

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ただし、禁止令が出るということは逆に、当時それだけ「殺生」する人もいたということですヨネ。

うな丼・蔦重でもなく「ただのまんじゅう」怖いー?

「おまんじゅうとにゃんこ猫(ぬこ)とニンニンジャー忍者』」今日は2月2日、ニンニンジャーで忍者の日とかにゃんニャンコ猫(ぬこ)の日とかとされていますが、節分(せつぶん)なんですね。

(午前はすぎたので午後2時2分に投稿)

インフルエンザやコロナほか、感染症が流行っているそうですので、年齢分の大豆や恵方巻(今年は西南西だとか)を食べて、災厄・病魔も追い祓いたいですねー

お題「ベーカリー(パン屋)で必ず買ってしまうパン」

節分の後は2月14日、バレンタインデー🍫

わたしはお菓子としてでないパンでは大体チーズ入りを1つは買っちゃいますけど、甘党で、板チョコのような歯ごたえあるチョコレートと柔らかい生クリーム入りのパンが大好きです。

ただ、最近は、カカオ不足ですし、ヘルシーの面でもお団子(だんご)や餅饅頭(もちまんじゅう)かなー

 

ここで「タダ」の「マンジュウ」といえば、源頼朝(みなもとのよりとも)や足利尊氏(あしかがたかうじ)、武田信玄(たけだしんげん)たちのご先祖「(清和-陽成)源氏」の二代目「多田満仲

氏祖・初代である父、源経基(みなもとのつねもと)は、武蔵国(むさしのくに。≒今の埼玉県+東京都)の国司(の中の次官である介=すけ)として赴任し、規定を破り、長官の着任前に私腹を肥やすため、職権濫用を始め、隣国の1土豪であった平将門(たいらのまさかど)がみかねて仲裁に入ったのに、怯えて引き籠り、さらに誤解がこじれると、一目散で逃げだしました。

それも籠城していた拠点から体勢を立て直すため一旦、退避しただけなら、誤解にも気が付けたでしょうが、はるばる京都まで逃げ帰って、あちこちに泣き憑き訴えたものの、誣告(ぶこく。虚偽の訴え)罪の嫌疑で拘留されてしまいました。

一応、中央から、調査官たちが任命派遣されたり、しましたが、平将門の潔白・擁護の関東諸国国府の解説文書まで提出され、このまま歴史から消えちゃうかと思いきや、数か月後、将門が常陸国(≒茨城県)でも紛争介入から、本当に反逆となる国府を次々と攻め落としたことから、一転、五位に特進し、追討軍の副将にも抜擢され、しかし、平将門も、藤原純友も、直接、討ち取るどころか奮戦する功績はないものの、「将門」の一角を占めたのです。

 

そして、源満仲(みなもとのみつなか)は、さらに卑劣な裏切り恥さらしでのし上がりました。

父の容疑の調査役となった源俊(みなもとのすぐる。「嵯峨源氏」)の娘と結婚し、跡取り長子とされる源頼光(みなもとのよりみつ、ライコウ)を得ますが、その従兄弟は醍醐帝の皇子にして摂関氏の婿ともなり、「源氏長者」、さらに「一上」左大臣にまで昇っていた源高明(みなもとのたかあきら)でした。

「おまんじゅうとにゃんこ猫(ぬこ)とニンニンジャー忍者』」

相撲


当初はそのツテで仕え、同・異母弟たちと比べても出世していたようですが、盟友であった藤原千晴(俵藤太秀郷の長男)をライバル視し、相撲で負けたのを恨み、「謀反(ぼうへん・むほん)」の罪で密告。これは、摂関氏内部で、天皇外戚の座まで奪われる危機感、内紛での陰謀とされる「安和の変」で、すかさず、源高明藤原千晴の主従たちは蹴落とされ、配流されます。

逆に不名誉極まりない「裏切りの密告役」を務め、念願の正五位下(しょうごいのげ。五位の4段階では第二位)への特進を果したのです。

この時、最初の妻と思われる「源俊ノ娘=源頼光ノ母」の状況は不明ですが、源高明と同年齢の異母兄弟で優秀だったため逆に皇室に戻された「中書王」兼明(かねあきら)親王外戚藤原南家の致忠の娘と結婚し、源頼親源頼信らをもうけています。

 

大河ドラマ「光る君へ」でも描かれた、若き花山帝の乳母子(めのとご、乳兄弟とも。実の兄弟以上に結び付きが強く、一番の腹心)をそれまで支えてきた糟糠の先妻を捨てさせ、娘婿にしましたが、その信頼・油断を見事なまでに裏切りました。

摂関氏の中でも、幼い東宮(とうぐう、次代の帝となる皇太子、この時は花山天皇の従弟)の外祖父として実権を握りたかった藤原兼家(ふじわらのかねいえ)のクーデター、陰謀で、息子たちの中でも藤原道長(ふじわらのみちなが)の同母兄で、この時も寵妃を亡くし純粋に悲しむ花山帝を騙し、真夜中に内裏(だいり。皇居・宮城)から極秘裡に連れ出し、出家剃髪させ、一気に退位させてしまう汚れ役を担った藤原道兼(ふじわらのみちかね)に、源満仲一家「清和(-陽成)源氏」は仕えていたようで、その護送、というか押送を務めたとされています。

 

ちなみに、陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明は、この時あたかも予知していたようだったという話は有名ですが、通り路や源満仲を支援した弟、源満季の邸宅などと同じ一条に住み、戻り橋下に「式神」という鬼たちを伏せさせ駆使していたというのは、実は闇に蠢く盗賊とも隠密忍者ともいう集団を率いる平将門の遺児、「信田」平将国だったという説は以前からありますね。

安倍晴明は源平以上に前半生までは父母なども謎で、遅咲きの天文道学生から、まさに花山朝、突然、活躍し始め、陰陽道の第一人者、土御門家の開祖となりますが、社伝などでは、和泉国(いずみのくに)の信太(しだ)の森の狐「葛葉」が産み、隣国摂津(せっつ)の阿倍野あたりから上京、入門・修業したとされます。

かつて「平将門の遺児」が上京したと源満仲たちが騒ぎ立てたといいますが、別の娘婿である「仁明源氏」の源敦が、父なし子を母ともども引取り養育したのが「嵯峨源氏源綱(みなもとのつな。のちの「頼光四天王」の筆頭「渡辺源次」)で、関係があったのかもしれません。

 

ただし、利権出世のためには妻子や盟友、主君たちも義理人情も、恥もなく裏切り、卑劣極まりないという源満仲も、内心は悩み、後悔していたと私は思うのです。

 

彼は摂津国(せっつのくに)でも山間の、猪名川渓谷で、地元の人民を虫けらのように殺傷・酷使し、多田荘を開発したが、放蕩の問題児だった末子が、比叡山に入門、修行し、逆に父に説教して改悛・出家させたのだという伝承がありますが、

花山帝を追って悲嘆のなか出家した婿を追って出家した娘たちを、さらに追っての出家だったのかもしれません。

あるいは感傷だけでなく、まさにこの前後、藤原致忠一家自体が壊滅の危機に追い込まれており、源満仲も首を洗って震えていた中で、ついに足を洗う引退宣言だったのかもしれません。

 

祈☆合格彡でも『ゲンペイ♪いろいろ♬』

「祈☆合格彡でも『ゲンペイ♪いろいろ♬』」昨日今日は大学入試の共通テスト。

 

予想が的中し、出題で大河ドラマ「光る君へ」関連から。

 

次は、

今年の「べらぼう~蔦重栄華之夢噺」にからんで国語のほか歴史で出題でしょうかね。

news.goo.ne.jp 今週のお題「勉強していること、勉強したいこと」

ということで、

げんじtoへいけの物語『源平物語集』にちなみ、必ず、どの教科書やテストにも出てくるほど有名なのに、意外に、まだまだ残る謎について

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死刑も徴兵、軍隊も事実上、廃止された平安の世ですが、同じ「源氏」といっても「光源氏」ほか優雅な貴公子方とは大違いで恐ろしい!と千年前も流行歌になっていたように、近隣諸国が一斉に倒れた世界激動の中で、将軍の家系として新たに生まれた将門「源平藤橘」4朝臣

その割に初期はみな不明確。活躍したのは同時代史料で確実でも、その前後は後世の系図や伝承に依存し異論もあります。

特に

https://gamepay.hateblo.jp/entry/2024/12/31/160049

「橘」(たちばな)氏は、直後に報復かで悲劇を迎え、有名な「俵藤太」秀郷の「藤(原)」(ふじわら)氏も、お公家はんとしては人臣最高、「摂関」職権を独占世襲する等圧倒的だったのに対し、失墜二流化します。

「鬼神将門公」たちの「平」(たいら)氏も、高望(たかもち)王は同時代史料には見えず、子・孫の代の「承平・天慶の乱」直後とされる『将門記』も冒頭の箇所などが散逸し、不明な点があります。

ただし、

≪10世紀前半すでに、今の千葉県~茨城県など、関東地方の東部を中心に、朝廷から赴任する国司(知事~総督)たちも凌ぐほどの強大な勢力を誇っていたらしい。

その後、源頼朝(みなもとのよりとも)・源義経(みなもとのよしつね)、足利尊氏(あしかがたかうじ)、新田義貞(にったよしさだ)、さらに徳川家康などのご先祖「河内源氏」(かわちげんじ)が、約90年後の「平忠常(たいらのただつね)の乱」を鎮圧して、平氏を家来にし(さらに、東北での反乱も討伐し)、「武士の長者」(ちょうじゃ。第一人者)となった。が約80年後、源氏を「番犬」とし、栄華を誇る摂関家から、権力を奪いたい院政の陰謀で逆転。

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(伊勢)平氏(いせへいし)の中でも傍流で、弱小無名だった六波羅(ろくはら)一家の平正盛(たいらのまさもり)が

源氏の棟梁だった源義親(みなもとのよしちか)を征伐したという手柄で無理やり取り立てたものの、実は真っ赤なウソだったという主張があり、源義親はその後もたびたび現れ、上京もした。

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その50年後、「保元の乱」「平治の乱」でも、その子・孫たちは、組んだお公家はん方が原因で惨敗。しかし、その子、源頼朝源義経たちが、復讐を果し、天下を取った、≫

という通説、俗説は今も根強いようです。

 

しかし、事実はかなり違いました。

 

氏祖「六孫王」源経基(みなもとのつねもと)は、「多田満仲」「頼光四天王」源さえも一時曖昧不明。

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恐らく唯一既成基盤清和・陽成説にせよ父母方を含め無く「経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。驚キ愕イデ分散ス」も寧ろ当然で、最も成功!できた要因は運勢(将門純友の乱、他の源氏)、(まず半世紀後~平氏と並び立つ「一物」化)三代らの苦悩奮闘

中でも平氏との意外な関係(貞道、維衡、将恒相婿)、

氏祖・初代である源経基(みなもとのつねもと)は、一目散で逃げ、それも籠城していた拠点から体勢を立て直すため一旦、退避しただけなら、誤解にも気が付けたでしょうが、はるばる京都まで逃げ帰って、あちこちに泣き憑き訴えたものの、誣告罪の嫌疑で拘留されてしまいました。

源満仲(みなもとのみつなか)は、さらに卑劣な裏切りでのし上がりました。

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〇源氏の氏神は八幡サマ?

八幡信仰の総本山という宇佐に祀られる応神天皇

河内も八幡の氏神化は新羅三郎義光元服(千51カ63?)以降、やはり義家主導(下手すれば後奥入帰京後,河内の所領独占策で
頼清・義文武貧富?奥入り

従来あまりにも粗雑幼稚で今も根強い事後の既成概念先入観からみており「源氏は強大で、優秀。とくに<平忠常の乱>で、坂東で平氏らを家人にした」

 

しかし、実際は、当時の「源氏」に、そのような武力はなかったのです。

 

確かに「将門」の一角から、摂津国など近畿に所領をもち、摂関氏内訌の政争で汚れ仕事も請け負い、ライバル藤原秀郷流を蹴落として、のし上がりましたが、後世の御伽草子大江山酒呑童子」ら鬼退治で有名な「四天王」を率いる源頼光はすでに、武士というより宮廷の中級官僚でしたし、共に藤原道兼(ふじわらのみちかね)に仕え、花山天皇深夜の隠密行幸出家の護送を務めたらしい異母弟の源頼信は、おそらく子孫による逸話がいくつも残されていますが、口だけは勇ましいものの、実体が全く伴わず、兄たちや郎党らからも、軽侮されていました。

実の親兄弟以上に緊密な乳兄弟も武士とは程遠く、敵対者の暗殺を、異母兄頼光の郎党の一、平貞道に、大勢の前で頼み、結果見事に利用依存できたのですが、それだけ自身に武力、手勢もなかったのです。

 

長男の源頼義は、小一条院敦明親王に仕え、いつも弱弓を携え、つき従っており、また平直方陸奥での戦場でも多くが感心したほど騎射の名手だったといいます。

その頼義がそれなりの年齢になった頃、すでに上野か常陸の介を拝命していたでしょう父頼信が、東国から、良馬を得て、帰京したので、ねだろうと泊まり込んだ夜、その馬を泥棒に盗まれ、父子で追いかけ、闇の中で音・声を頼りに射殺し奪回した「神業」が伝えられています。

 

ただし、白昼の衆目の中とは正反対、それこそ父子二人だけが知る「武勇伝」であり、鵜呑みにはできないのに加えて、そもそも、その前提として、

東国からずっと狙われていたのに、源頼信が、撃退どころか、察知もできず、まんまと京都の自宅まで知られ、挙句に厩舎から生きたまま盗み出されてしまった。彼自身の能力も、頼れる武士たちも、なかった。だからこそ、深夜に、父子が自ら追いかける事態に至ったわけです。

 

何より、「天下の名将」どころか、隠蔽抹殺したい全く不名誉な事に、頼信の妻(頼義の母)「修理命婦」は、公然と侍女の夫と不倫「下淫」し、その息子も産み育てるのです。

 

頼義はこの当時、まだ結婚も自活もしておらず、母のもとにいたと思われますが、母が異父兄弟を産んだことを嫌悪し、以後、高貴な女性を選ぶ家訓とし、頼義自身、平直方を感心させ、娘を妻に得た事、また、この名馬か子孫か、陸奥の戦争で惨敗し、喪失した愛馬を帰京凱旋後も(母のは行わずとも)命日に追善供養した話も伝わります。

 

ただし、母も決して低い身分ではなく、内「命婦」(みょうぶ)は宮仕えでも(例えば、清少納言紫式部たちは五位の男性の娘にして妻、中臈の個室もちでしたが、あくまで皇后たちの私的侍女だったと思われるのに対し)自らが正式の五位以上の女性官僚で(あるいは天皇付きだったか)、片思い等というよりそれもあって、頼信たちも頭があがらなかったのでしょう。

 

源頼清は、頼信が主に文の道を、というより、母の教導・コネでしょう、不信・反感の同腹兄の頼義より出世し、頼光一家並に蔵人から京大夫(左・右に分れた京職の長官。いわば都知事)という異例の立身を遂げますが、それでも貧乏だった話も有名です。

 

今昔物語集』等に、平忠常を降参させた説話があるものの、史実では甲斐守のはずなのに、常陸介の在任中で忠常本人とは直接対面に至らず「詫び状」等を送られ引き下がったとされており、矛盾を解く推測として、「長元の乱」の前に、攻防勝敗主従関係があって起用され、結果見事に連行(の道中、忠常は病死し、首だけ持参)に成功したという説が今も最有力です。

しかし、同時代史料が多い時期なのに、全く記されておらず、逆に説話で、数か国数年間にまたがった大戦争で結末にあたる「長元の乱」について触れていないのは無理があるのです。

この話にも登場し、ソースがかぶっていると考えられる、常陸の大名、平維幹(惟基)の「姫君連れ去り婚」話が、息子平為幹の国司紫式部の異母弟で常陸介在任中に死去し遺された)夫人強姦事件との混同の可能性以上に、あえて誤魔化して伝えたかもしれません。

平忠常は、「蝦夷」や「刀伊」等の外敵や盗賊とも違い、平将門藤原純友ら以上の正規の官位と中央宮廷、摂関家にも人脈をもち、最初から断固追討処罰すべきという動きと、抑制阻害し有耶無耶にしようという動きがあり、忠常の息子の一人は出家、上京し、藤原教通一家への密書も摘発されましたが、真相も闇の中に隠されたままです。

 

朝廷宮中での裏工作と、戦争の損害の甚大さで、武力征伐の方針が撤回され、本物か不明の首を持ち帰り、晒して体面を保持し、忠常一家はそのまま黙認となりました。

 

「鎌倉殿」幕府の実権支配者となる北条氏のご先祖とされている平直方は、同じ「桓武平氏高望王流の傍系(平良文の孫)にあたる平忠常の乱の追討を命じられ、意気込み下向したものの果たせませんでした。

確かに兵200というのは当時の「京武者」としてはトップ級でしたが、遠い関東の現地では数千~数万規模で、集め駆使できるか。また、質も、副官の中原成道が早々途中で泣き言、辞任願い出など、「道志」でなのか、意図的妨害か、足手まといになりましたし、直属の手勢の他、検非違使衛府からの従軍が多かったと考えられます。

何より、平直方自身が当時いまだ、受領どころか五位ですらない判官、検非違使ノ尉あがりで、すでに五位、地元の国司、在庁筆頭も歴任とされる平忠常の上位とは到底いえませんでした。

結果、「説得教諭」より武断、実力での侵攻となったようです。

その後、平直方の父、平維時が、すでに平忠常に惨敗していた上総国の介(すけ。国司の第二等官ですが、常陸国等と同じく長官の「守」は親王が名目上専任されるため、実質は受領)に補任され、直方解任後の辞表、後任の奏上からも、激烈な焦土戦術などで、人民は疲弊死傷逃散し、田畑も荒廃したため、朝廷がやめさせたといわれます。

 

つまり、平直方が追討平定に失敗、とはいえ、武力で敗れた、などではなかったのです。

その証拠に、その後も、朝廷で昇進もし、起用もされています。

とくに、後の僧兵強訴の始ともされる、「北嶺」比叡山の円仁派=「山門」徒党が、三井=園城「寺門」派の明尊の天台座主(てんだいざす。仏教の1大宗派である天台密教の総本山、比叡山延暦寺の最高職で、いわばキリスト教カトリックローマ法王のような立場)補任に猛反対しました。

明尊と対立候補との権力抗争などというよりも、懇意親密で尊敬する摂関藤原頼通が、肩入れし、政治権力で無理やり押しつけと反発した、真面目な学侶たちなど、全体的、大衆的な危機・不満感だったようで、

大挙、政府首脳である藤原頼通の邸宅に押し寄せ、ついに正門の柱を掘り倒して乱入しようとまで暴走した際は、天皇皇后も誰も制御できず、天下~京都の人々にとっては、地方の戦乱以上の大災害でしたが、頼みとされ、見事に退散させたのが平直方でした。

平忠常の乱後数年、在地の国司から、従軍した検非違使らまでの報告談もすでに詳細充分、惨敗撤退逃亡など卑怯な事実があれば知れ渡っており、頼通直結の証拠も無いですが仮にそうだとしても、当の僧兵に侮蔑され逆効果でしょうし、北条氏滅亡後、足利政権直下の京都で編纂された尊卑等でも「極メタル兵」とされ、畏怖されていたと考えられます。

 

もっとも、平直方は、北条氏だけでなく、源頼朝義経ら兄弟や足利・新田・佐竹・武田氏などのご先祖であり、「源氏三代」ほどではなくとも、誇張美化はありえます。


平氏内部でも謎:従来嫡流(平将軍貞盛ノ流という意味では妥当ですが、その中では不明、実際は孫、維将の子という)維時-直方説←四男維衡家との接触良悪共なし,が粗同世代ぽいですが維衡-正輔…の方が官位で上級なのは明瞭です。

 

さらに平維衡の妻の一人は「清和源氏源頼光ら兄弟の従姉妹であり、源頼信が起用された理由は、同族近親の縁と考えられるのです。

 

致頼-致経とはやはり抗争重代宿敵化してきたものの、その近親の忠頼-恒常と必ずしも敵対でなかったようです。

平忠頼-良-頼良。安倍。信太将国=安倍正国?、信太将明?=安倍晴明

清原氏出羽国山北三郡「俘囚主」清原光頼の「舎弟」武則は岩城(平)氏出身とする系図による説はすでに知られていますが、平正度=藤原蔵規の異母兄弟?。「平眞平」=平正衡源頼義の外孫平貞弘=「清原貞廣」。平安濃津三郎平貞衡=岩城三郎?平貞衡。

藤原(蔵規はby実資&菊池氏伝、千19刀伊の入寇時は?迄藤?。22対守、後復平で敦良東宮千(19-36)帯刀長、36カ斎宮(但し資房らとの接点皆無カ)-諸陵助…40「則隆-正高」。

多度大社の神宮寺である法雲寺、僧「良心」⇒還俗し平正盛

「ナニがぁ♪ブシだぁよ♪ゲンペイは~ん?」

お題「この曲、心がささくれてる時に聴くと良いよ!」

(いま「おすすめのお題」として)

浪花節だよ人生は

「ナニがぁ♪武士だぁよ♪ゲンペイは~ん?」≒ナイト?

思っていたようにいかずに、失敗して落ち込んだり、悩んでしまったときに、つい鼻唄ぽく口ずさんでいます。

日本だけでも、けっこう多くの有名な歌手たちが、競って謡い、また、ものまねやカバーもされてきていますね。

「世の中、理屈だけじゃない」

「わかっちゃいるけど、やめられない」

 

メロディーやラブソングというだけでなく、海外でも謳われるように、広く通じる名曲なのでしょう。

 

パロディの中でも、子役タレント時代の加藤清史郎さんの元気でカワイイ替え歌のデビュー曲である「かつおぶしだよ人生は」が、NHKみんなのうた」が流れているのを聴いてハマりました(^^♪

 

(よく考えると、義理と人情って、ちがうものだと思いますけど)

 

そこからさらにひねって、わたしの推しタイトルは「何がブシだよ源平は~ん?」に。

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前述のように、各国の常備軍全廃など、軍縮した「平安」時代でしたが、実際には内憂外患はあり、それらの要請で、「武士」が生まれました。

 

「武士」といっても、時代劇や大河ドラマでも、いろいろですよね。

西洋中世の「騎士」も、王侯貴族から自分の城も領地もない雇われ等々まで、広い呼称、概念ですが、

「武士の四面」、4つの類型として

「ナニがぁ♪ブシだぁよ♪ゲンペイは~ん?」:「武士の四面」?

土豪

●役人

●軍兵

●裏切

があげられます。

 

土豪というのは、京都の貴族「お公家はん方」に対し、現地で実際に経営・管理しているいわゆる「在地領主」。自衛のため武装し、さらに「下剋上」で「搾取・収奪・支配」に抵抗・独立、拒否・打破していく「階級闘争・革命・発展」史観など、戦後、有力なとらえ方です。

 

「役人」という面は、これに対して、批判的に提起された説で、江戸(時代)に限らず、近世では、土地から懸け隔てられ、切り離された「武士」が多いし、お「サムライ」は、元々、主君の居所、身辺に「侍(さぶらひ・はべる役割)」で、「侍従」「侍女」など、武人や男性に限らず、階級的には「公卿-大夫-士」の「士」、地下(ぢげ)の六位以下に相当していきます。

土豪」説では、ヤマト朝廷に征服され従属した古来各地の豪族や、新規開拓で成長した富裕な農民が、「中央」の「源平藤橘」等と全く関係のないのに「氏姓」や系図・伝承等を捏造・改竄・詐称したり「仮冒」とされたりもします。しかし、系図集が南北・室町期以降にまとめられるのは、単に各自家系図・暗記できる代数を超えたとか戦火等で残っていない、お公家はん方の状況激変等もあるものの、何より下剋上で「証明」の需要が生じた事があり、逆にそれまでは互いに自明だった、養子入り等や特例もあるものの記録され、少なくとも周知公認の上で明らかな改竄捏造の格差があるケースは考え難く、誇張・過大視であり、少なくとも国府の支配も健在・存続し、地元の移転変動も限定、閉塞的だった平安時代、好き勝手に「源平藤橘」等を名乗り、改姓できたか、疑問で、「貴種」を求める地元に婿入り土着など、むしろ「上から下へ」「中央から地方・辺境へ」移動拡散・伝播浸透というものです。

今年のNHK大河ドラマ「べらぼう」でも武士がたくさん登場しますが、身分上は一応「武士」でも、実際は学者、副業的にせよ(小説など文学)作家、絵師(画家)、発明家など、江戸時代に限らず、室町、そして鎌倉幕府でも、非武芸者の家人も要職を占めていましたし、さらに女性の領主、御家人相続も認められていました。

 

「軍兵」説というのは、これらに対し、文字通り「軍(いくさ)」「兵(つはもの)」の側面で、プロの「もののふ」です。

西洋の「古典古代」ギリシャ・ローマでは「市民」が有事や交代で「密集歩兵」等への徴用兵役を義務づけられましたが、東洋では元々北方からの征服民族の王朝だった隋唐は、それまで漢民族で旧来王侯貴族が占拠してきた土地を、庶民大衆にも公平均等に配分し、税や役務を課し、「白村江の戦い」で敗退した大和朝廷も、導入模倣し律令制度「班田」等と共に国郡ごとに組織・配備した「軍団」を、桓武帝の改革で、一部前線を除き、全廃に踏み切りました。

一方で「東夷」との戦闘で、「蕨手の刀」が「中央」禁軍衛府の制式装備化していったとされるように戦法等も変化。そこで、一般民衆いわば本業でない素人が、交代で訓練や自弁での大量集団歩兵に対し、少数だが精鋭・専門。

特に、室町・江戸期の都市や屋内などでは「剣術」こそ「兵法」(ひょうほう)の如くに洗練され、真剣を大小二本も帯び、駆使するなど、相当な訓練・経費も要するようになりますが、基本的には「武士」といえば「弓取」(ゆみとり)、そして馬乗りでした。

京都という大都市街での陣取り長期戦「応仁の乱」以降、大量の「足軽」や鉄砲の活躍・主力化、さらに盾や集団長槍も復活していきますが、去勢しない荒馬を乗りこなし、大弓を引く、従って、盾をもたず、重い大鎧兜をまとうためには、相当の訓練・体力・技術・費用が必要(過密な京都などでは、上位の「お公家はん方」がたとえ、優駿、鷲羽、皮革等の資材・器具を集められても、田園平原荒野山谷を駆け巡り、必死に逃げる標的を狙撃する環境面では圧倒的に不足)でした。

五位以上の貴族は、国司としての赴任など、特別の認可がなければ、たとえ無官職の「散位」(さんみ)であっても、地方での居住など許されず、禁じられていました。

 

(※この点、「清和源氏」は京都均衡の「畿内」摂津、大和、河内、さらに近江、美濃、尾張等、中部東海でも、通勤圏内、数日で手勢をそろえ、馳せ参じられる上に、東西の交通を扼する要衝の国々に入植し、「京武者」としての基盤の形成確立で優位を得たのです)

 

平安時代でも、「一家三后」で有頂天、「望月の歌」を謳う藤原道長(ふじわらのみちなが)も含め、それまで「お公家はん方」も、実際はかなり激情的で暴力沙汰、刃傷事件も多く、文官でも、刀剣を携帯しており、また、「一上」(いちのかみ)~摂関の座を競う時点でも、好んで弓矢をとる者もいましたが、忌避嫌悪禁制疎外されていきます。

それを請け負い担う「武門」それを将(ひき)いる「将門」が顕在化してくるのです。

 

「裏切」というタイプは、これら華々しいハレの「表芸」(おもてげい)に対し、まさに「裏」。

「ナニがぁ♪ブシだぁよ♪ゲンペイは~ん?」:「裏切」密かに侵入し情報収集・拡散や暗殺破壊工作等をする忍者暴力組織・犯罪結社…。

大音声で名乗りを上げ、色鮮やかに飾り、禁制されても出し抜き、卑怯を死より恥とした「武士道」に対し、全くアンフェアで汚い不意打ち、暗殺、騙し討ち、奇襲、夜討ち朝駆け、闇夜に横行し、押しかけ、焼討をする武士たちも語られています。

火付け~盗賊が皇族や貴族だった、陰謀・裏切りも武士や男性に限りませんが、『今昔物語集』には盗賊団の女首領の一方、「忍者」の如く、隠れ密かに何日間も独り、親の仇の隙をつけ狙って、遂に暗殺し復讐を果した者も紹介されています。

また、これも桓武平氏」ですが、神田明神(かんだみょうじん)で祀られている平将門(たいらのまさかど)や、討伐した従兄である「平将軍」貞盛(さだもり)たちの従兄弟にあたる平公雅(たいらのきみまさ)の孫、平致経(たいらのむねつね)は大矢を引くので「大箭ノ左衛門尉」と称されていました。

藤原道長(ふじわらのみちなが)の後継者で「摂関家」そして10円硬貨に刻まれている平等院(びょうどういん)鳳凰堂(ほうおうどう)等を建立した藤原頼通(ふじわらのよりみち)の政権で、その居邸の宿直の当番だった夜、頼通が崇敬する明尊という高僧が来訪していましたが、急用のため、夜なのに近江国(≒滋賀県)大津の園城寺(おんじょうじ。三井寺・みいでら)までに戻ってこなくてはならず、致経が護送する事になりました。

明尊は頼通の厩舎で良い馬を選んでもらって乗りましたが、致経自身は徒歩で小者1人を従えるだけなので大丈夫かと不安のまま出発したのですが、800m程で黒ずくめの武者たちが現れ、致経をみると膝をついて控え、致経たちは平然と牽き出された馬に騎乗し、200m程ごとに続々と警備護送に加わっていき、帰途は逆に、洛中の都心に迫ると離脱していったのです。平安京は碁盤目状に大小路で区画されていましたが、その全方位の角ごと、何重にも、主君である致経を常に囲み、二人一番(つがい)で組む等して配置されていたのか、園城寺への護送役となり、直ぐ小者を走らせて指示し、参集待機させていたのかは不明ですが、相当に組織・訓練されていたのでしょう。

闇に潜み、囲み、現れ、また黙って消え散っていく謎の集団といえば、犯罪の臭いも。

「足柄山の金太郎」(あしがらやまノきんたろう)は鬼婆ともされる山姥に育てられ、「大江山酒呑童子」(おおえやまノしゅてんどうじ)たちは都に侵入し、お公家はん方のお姫様をさらったり、金品宝物を盗み奪ったりしていたというのは数百年後の御伽草子等ですが、実際に盗賊の被害は報告され、「武士」が必要とされていました。

箱根の山の神は?ハッピ~坂たすきンと金が新年☆彡

今週のお題「2024こんな年だった・2025こんな年にしたい」

新春恒例の箱根駅伝、第101回の今年ももりあがっていますね。

箱根の山こえ坂こえ金とろー!!101 th

箱根の山こえ坂こえ金とろー!!101 th

新春の東海道~国道1号線などを「関東学生陸上競技連盟」加盟大学の選手たちが襷(たすき)をつないでひた走り、箱根駅伝ミュージアム脇の石碑など、一日目の往路のフィニッシュ、ゴールから、折り返し、二日目の復路がスタートします。

ところで、「関東学生陸上競技連盟」。

この「関東」あるいは「関西」というのは元々「の東・西」という意味ですが、関東地方と関西地方は、間に中部・甲信地方など、かなり離れていますよね。

箱根駅伝コース

コース紹介|東京箱根間往復大学駅伝競走公式サイト

大和朝廷から東・西にそれぞれ三道がのび、うち東の北陸東山東海との関門が、越前国(えちぜんのくに。≒今の福井県)の愛発(あらち)・美濃国(みののくに)の不破(ふわ。関ケ原の由来)・伊勢国(いせのくに≒今の三重県)の鈴鹿(すずか)の三關で、今の京都に遷都した平安時代に入り、愛発→近江国(おうみのくに)の逢坂(あふさか・おほさか)の関に移転・後退。これらより西の畿内が「関西」。

そして、元はそれより東が東夷(あずまゑびす)の棲む「関東」、「東国」だったのですが、大和朝廷の統治が安定すると、碓氷(うすい)、足柄(あしがら)の峠・坂に「関」を設け、それより東を「坂ノ東」で「坂東」(ばんどう)と称し、さらに東北へ、「奥羽」との国境に白河(しらかわ)・勿来(なこそ)、さらに衣川(ころもがわ)の関所が新設されていきますが、「坂東」「関東」も固定名詞化したのです。

箱根~国道1号線(東海道)~公時神社~金時山~足柄ノ関所跡
箱根~国道1号線(東海道)~公時神社~金時山~足柄ノ関所跡

東海道足柄峠越えのルートはのちに箱根ルートへとうつり、関所も設けられました。

その中間に、金時山、公時神社があります。

足柄山で山姥(ヤマンバ)に育てられ、熊と相撲とをとり、鉞(まさかり)をかついで「頼光四天王(らいこうしてんのう)」の一人となった「金太郎」は、「坂田公時」(さかたのきんとき)、本姓は「下毛野(しもつけぬ)公時」がモデルだとみられます。

下毛野氏は近衛府下士官等を代々輩出してきており、藤原道長(ふじわらのみちなが)の警護をする「随身(ずいしん」)を務め、道長に私的に仕えた源頼光(みなもとのよりみつ)の郎党にもなったのか、

あるいは、伝承のように、頼光の郎党「碓井貞光」(うすいさだみち)こと平貞道(たいらのさだみち)に、出会い、拾われる形で、頼光、そして道長にも仕え、下毛野氏に婿入り養子などでなったのか、いまだ不明です。

頼光四天王」は、清少納言たちを不意打ちで襲い、その兄弟を殺害したともいわれています。

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金太郎の他には、彼を見出した碓井貞光、そして渡辺綱(わたなべつな)、卜部季武(うらべすえたけ)。

さらに、平井保昌(ひらいやすまさ)が加えられます。

 

「紅白」はおめでたいけど・・・・

いよいよ今年、大晦日も残り8時間!NHK紅白歌合戦♪♪は記念すべき第75回。

ボカロ紅白歌合戦や短歌で競う「紅白歌合」もあるんですね。

「紅白」はおめでたいし、ようやくプロフィール画像にあげました(お花)

一方、「紅白〇〇合戦」の由来は「源平合戦」だそうです。

「紅白」の由来をはじめ、詳しくは引用記事を参照していただくとして、

この「合戦」は、人間同士が本当に破壊殺傷し合う「戦争」です。

ask.golog.jpなぜ、起こってしまったのか?といえば。。。。

日本国内だけでなく、視野をひろげて振り返りましょう。

〇「平和憲法は世界の宝!?それとも、押しつけ!?」

〇「親皇」四姓「源平藤橘」誕生

〇「千年紀」末~「滅亡ラッシュ」の十世紀

〇摂関氏~「将門」誕生

 

〇「平和憲法は世界の宝!?それとも、押しつけ!?」

日本は「島国根性」「平和ボケ」などといわれますが、いわゆる「反日左翼」と呼ばれる人々が、勉強もせず、また、自分や支持勢力のご都合次第の口先、ポジショントークなどはともかく、一面では確かに事実であり、ひるがえって、自称「愛国保守派」でも同様でしょう。

改憲」の是非とは別ですが、「平和憲法」の精神は、「西洋かぶれ」「欧米盲従」「反日左翼」とか、「敗戦」で押し付けられたものではなく、太古から生まれ、柱となってきたものといえます。

侵略されにくく、侵略しにくい、「島国」等の地理的要因は大きいですが、「和を以て貴となす」を第一に掲げた「聖徳太子の十七条の憲法」、そして、数百万人規模の社会で数百年もの間、公式の「死刑」や「軍団」が廃止されていた「平安」の時代も、自然な成り行き任せ、などではなく、多くの血や涙、汗が流された後に、知恵と努力の成果として生み出され、護られてきたものです。

 

「人類最初の化学的変化の応用」という土器を今も世界最古級で生み、育んだ地であり、動物の狩猟に対し、植物の採取・調理と共に、早くから先進的な文化、芸術性、そして1万年以上もの間、非常に平和な社会をつくっていたと考えられます。

 

西洋ではキリストが十字架で磔刑に処され、蘇生復活昇天したと信仰され、ちょうど1千年後が、清少納言紫式部たちが活躍した時代ですね。

では、以下、西方教会のローマバチカン暦(いわゆる西暦)で、千年紀(ミレニアム)をごくごく簡略に速見していきます。

日本の記紀等では、天孫降臨の後、長き数代もかけ、統合していきますし、

1世紀.ローマが地中海岸全体の帝国化する中シルクロードで結ばれた中国も後漢帝国が朝鮮征伐をし、改めて北の高句麗冊封しますが、「倭」からも使節が派遣され「百余ヵ国」あったとの記録

3世紀.「邪馬台国」の女王卑弥呼の頃、中国は鼎立『三国志』期から魏が晋に王朝交代、さらに約百年ぶり280再統一。後すぐ再分裂。(西)ローマ帝国も滅亡、分裂戦乱

韓半島は南部までの(統一国家ない中、南侵拡大の高句麗に敗退)広い日本列島では、南北九州や日高見(常陸)東北、北海道、島嶼と、地方王権も考えられていますが、「五王」~継体朝にかけ、ヤマトが比較的に圧倒・統合へ

ところが

7世紀.激動!北方異民族出身の隋に続き唐が中国征服、約3百年ぶりに再統一し、周辺へも侵略拡大。結果、韓・朝鮮半島は実質、史上初の統一国家

滅ぼされた百済(くだら・ペクチェ)の王子が留学というか人質で来日しており、遺臣たちの請願もうけ、大和朝廷も救援復興に乗り出しましたが「白村江」(はくすきのえ)で撃退され、物心ともに被害は甚大でした。

大失敗の原因は2つ。唐羅連合海軍が強かったとかいうよりも、日本側が全く隊列も組まず、暢気に港湾に入ろうとしたという事ですから、邀撃迎撃される覚悟以前に戦闘する備え、認識自体がゼロではないにせよ、薄すぎた事。そして、相手を軽く見下していたのでしょう。

唐に泣き憑き援軍を引き込んだ新羅(しらぎ・シルラ)は、元々、日本からの移民が建国時に宰相や王にも擁立されていたり、何度も貢献・依頼され派兵・援助したり、長く属国的関係だった事もあり、少なくとも当時の彼らの歴史記憶・認識感覚では、自分達が突然攻撃される事などない、それだけ長らく無敵で、軍も統一指揮・訓練の必要性自体なかったのでしょう。

さらに唐軍数千が、捕虜交換等を口実にしながらも、九州に上陸、進駐。

まさに衝撃・震撼!

元寇や「黒船」砲撃に脅され不平等条約を甘受し徳川幕府が滅び、改正撤廃等独立護持へ向け、明治維新で欧米化、法制どころか宗教・言葉まで従来を廃し西洋化しようとしたり、敗戦後、英語があふれ、沖縄ほか首都の各基地そして全域の制空権を奪われ続ける今以上だったかもしれません。

雪崩込んだ百済等からの亡命難民や、隋唐の王朝交代争乱を現地でみてきた遣隋使・留学生らの知見も受け容れ採用し、築城・防衛徴兵軍拡をはじめ中央集権「律令(リツリョウ)体制」模倣導入を国を挙げて一気急激に推進

結果として、西方でイスラーム、そして、チベットが急拡大して唐軍が敗退し、東方の韓半島でも、北部で渤海が建国され、新羅も、朝貢はするものの直接支配、進駐軍を拒否撃退した事もあり、無事、独立・平和が護られました。

 

こうした中で、日本も、諸外国と同様に、国内を二分し対決する宗教や王朝危機の戦争もあったのですが、見事に乗越え、「平安」時代を迎えます。歴史時代の区分は、政権所在地の名称をとり、皇居首都としてなら明治維新の第二行幸から今日にいたる「東京」時代まで1075年間ずっと「平安」時代でしたし、「鎌倉」以降の武家政権の中世を除いても、最長である400年近くです。

大陸等から模倣導入の恒久的な都城ですが、平安京は当初から羅城(門は作られましたが)で区切らず、防衛には弱く、「人は石垣」の諸国の常備軍団も、良民男子に課されていた兵役が負担であったので、東西の対外前線を除き全廃、さらに死刑も実質廃止状態となる、人類史上、稀有な社会となりました。

 

10世紀:再び激動!滅亡ドミノ

西方のキリスト教信者にとって千年紀末にあたる10世紀、分裂していたフランク王国が東・西とも、カロリング王朝が次々と終焉を迎え、現在のドイツ・イタリアになる「神聖ローマ帝国」、そしてフランス王国ドーバー海峡を挟んでイングランドは戦乱から征服統一へ。

東洋でも、あれほど怯え、憧れた、さらに渤海、そして日本より必死に唐の制度文物を導入し国際序列で競り合うほどになった新羅も、すべて滅び去ったのです。

日本も東・西で陸海争乱~将門・純友の乱→摂関氏・武門「源平藤橘」の成立

11世紀.道長摂関家の確立。「イエ」。1066Xマス倫敦入城即位~反乱鎮圧71、1095⇒6-十字軍。1187サラディンによる十字軍国家再征服

12世紀.父系制、「武者の世」へ

と続き、海外も「イングランド征服」「十字軍」侵略。東南北アジアも再び興亡戦乱。韓半島の高麗(こうらい・こま・コリア)は王家こそ存続したものの軽蔑されていた武者が実権を握り、国土民衆は何百年間も侵略・戦火に苦しみ続けます。

では、詳細に立ち入る前に、そもそも「源平」て、なんなのさー!?といえば…

 

〇「親皇」四姓「源平藤橘」誕生

皇朝を支える4大朝臣(あそみ)の氏姓で「四大姓」とか「天下の四姓」などとされる「源平藤橘

近代は「本姓」廃止、それぞれの苗字や屋号、氏ほかから自由に選び決めた戸籍制度になり、わたしも実際「素性の知れない」名もなき「百姓(ヒャクセイ。白姓。おほみたから、公民。昔は人口のほとんどが農業でした)」ですが、また皇后、大臣たちにも制限はありません。平安時代以来、四姓でも長らく、平や橘はごく少数で、大半は藤原で、あとは源でした。

「四大氏(朝臣)姓」 源平藤橘

「四大氏(朝臣)姓」 源平藤橘

四姓以外にも、天皇家から分派した「皇別」氏族はいくつもあるのですが、長い歴史の中で、ちょうど非常に重要な節目でした。

平安京を創建したのは桓武帝でしたが、その子の世代で再び政治と皇統の対立混乱があり、仁明帝から、その後、当今までつながる流れとなります。

一言でまとめると、その父院、嵯峨(さが太上)天皇

庶子:源(みなもと)本来は「一世」王のみ。が仁明帝以降も輩出、21帝系とも

甥:平(たいら)同じく仁明、淳和…と続くも二世源氏などの続出で、区別も消失

 

洋の東西を問わず、皇族、ロイヤルファミリーは有能で活躍しすぎても皇位争いになり、時の天皇側からは危険視され、とくに実権ある官職から排除され、暇を持て余したり、生活に困窮する皇族もあらわれ、財政とともに政治・社会を悪化させる原因にもなりました。

今の京都を開いた桓武天皇(かんむてんのう)に続き、皇子の一人、嵯峨天皇(さがてんのう)も、兄の平城上皇などとの紛争を経て、当時の中国、唐帝国に倣い、大家父長的な統治をおこないました。後宮ハーレムに倣い、何十人もの子をもうけたのです。

そこで、中でも、身分の低い女性の子どもたちを皇籍から人臣に移すことで、天皇を脅かすのでなく、支える高官として取り立て、逆に出世、活躍しやすくなったのです。

「賜姓降臣」自体は父帝桓武も、それ以前からも行われており、「律令」(リツリョウ)では五世王までが「皇親」とされ、それ以降の子孫は待遇を受けられなくなるため、「橘」氏など、自ら願い出ることも多く、「四姓」最大で唯一「非皇別」の藤原氏も実質的初代の不比等天智天皇の御落胤との記述もあります。

嵯峨帝の斬新だった点は、当時の帝(みかど)、仁明天皇と同じ「源(みなもと)」ということですが、当時の中国、唐は「李」氏、新羅は「金」氏の王朝で、漢字1字の氏を与え、名も1字に統一し、最初の8名に続けて、一挙に旧来からの貴族、皇族たちをも押し退けると要職を占めていったのです。

近代では明治、あるいは戦後、欧米化の流行、西洋風の名付けや「キラキラネーム」も増えましたが、当時も同様でした。

西方では、アルファベットが、古代エジプト象形文字から抽象化され、元々の意味は忘却されていますが、漢字は常用だけでも百倍、実際は千倍、万倍も多く、また、動物や自然、物などの他、複雑多様な意味をもち、組合せの慣用語句などになるほど、中国の古典歴史の知識教養もいるため、日本も万葉仮名の頃は音のみを借用した当て字で、佳い(中国側が周囲の諸民族や地名等を記録する時は逆に敢えて卑しい)とされる字を選ぶ程度でしたが、遣唐使などで唐以下の諸国を意識してか、直接交流する事は一生ない人々まで、流行りでしょうか。

例えば、嵯峨帝自身の名は「カミノ」、兄の平城院は「アテ」、二人の母は「オトムロ」という和語(やまとことば)を適当な漢字で記す万葉仮名でしたが、嫡子である仁明天皇は「正良」、兄弟も(源氏などの庶子は除き)「正〇」、葛原親王の王子も「高〇」など、兄弟で共通の1文字にする「通字」、藤原氏らも良継(ふじわらのよしつぐ)は元々の「宿奈麿」(スクナマロ)から改称するなど、はじめに意味のある漢字2文字を意識しての名付けへの画期でした。

源氏物語」の光る君のモデルとされる「源」氏の人々も、「もうひとつの源氏物語」の登場人物たちも、こうして生まれたのです。

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これに対し、「(内)親王」宣下をうけられた皇子も、その子や孫の代には不遇になるよりは、と仁明帝の従兄弟にあたる高棟王(たかむねノおほきみ)たちが「平」氏の開初となりました。

 

〇「千年紀」末~「滅亡ラッシュ」の十世紀

源平藤橘」のうち、「藤橘」はすでに賜姓されていましたが、母が百済系氏族の桓武帝と同じく(但し自称は漢の遺民)東漢(やまとのあや)氏の坂上氏田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)征夷事業後、大軍縮に踏み切り、さらに嵯峨院政まで重要な変革でした。

藤原四門のうち式家(しきけ)の「藤原薬子の変=平城上皇の乱」後も、政変権力争奪は続き、また、死刑や軍も完全に廃止されたわけではなく、戦闘や争乱もあったのですが、公式には「死刑執行」も、また京都での戦乱も、「保元の乱」(ほうげんのらん)まで実に346年もの間ない「平安」の時代に入る画期だったのです。

ところが

前掲の年表で、紹介しました、10世紀:再び激動!滅亡ドミノ

すでに最後の遣唐使から久しく、良くも悪くも「島国ニッポン」化、というか回帰が進んでおり、どこまで情報を収集、警戒・防備、対応等できていたか。。。。

 

わたしはしかし、半島~大陸の情勢は伝わっていたと考えます。

鎖国」していたわけでもなく、「承平・天慶の乱」(じょうへい・てんぎょうのらん)後まもなく完成していたろうとみられる『将門記』(しょうもんき)の文飾、その平将門(たいらのまさかど)の弟の一人は「天神様」菅原道真(すがわらのみちざね)の子に師事していたり、さらに、国家を挙げて、ではないにせよ、対策が進められていたのではないか、

将門が青少年期に出仕していたという、当時の首班、藤原忠平(ふじわらのただひら)は、藤原純友(ふじわらのすみとも)の又従兄弟でもあり、内々、連携して、それぞれ東・西の陸・海軍の組織化を進めており、もちろん、他、常備軍団全廃の各国衙でも、地方の貴族たちも含めて、有事に相当の兵力を動員できており、実際、中央派遣の征討軍や国府軍でなく、押領使等に特命された地方貴族が、将門・純友を追討したのですが、やはり、将門・純友がそれまでの数年間、急激に突出した要因・関連から推測します。

 

結果的に、外患動乱は、日本に波及せず、直接寄与したか不明ながら、用済みとなって暴発か、「将門・純友の乱」が勃発したものの、鎮圧・平定され、「摂関氏」が確立しました。

摂政(せっしょう)は、幼少の天皇や女帝の間、母后や皇太子等が代理を務め、関白(かんぱく)は天皇への上奏報告等の文書を事前に内覧する令外の官職で、どちらもすでに藤原北家の冬嗣(ふゆつぐ)-良房(よしふさ)ー基経(もとつね)三代で独走的に占めてきていましたが、しばらく空席となり、再び皇族や他の家や氏がなったり、廃絶となる可能性もありえたのですが、幼少病弱の朱雀帝を補佐し、国難を乗り越えた忠平以後、その家系が代々「藤氏長者」、そして天皇の幼少期は摂政~成人後は関白を、姻外戚後見補佐として、独占世襲的に占める準皇族・私物化し、その「摂関氏」内部での権力闘争に移ると共に、政権から排斥され転落していく他氏も、固定された「家格」上限の位、世襲官職をせめて維持していく「イエ」の時代に入る中で、大伴・佐伯、物部・石上等、古来の軍事氏族が、それゆえ逆に敬遠警戒排斥され、自ら積極的に文化したり、没落した空白を埋め、「軍(いくさ)を将(ひき)いる武門」として、鎮圧平定に功績あった「源平藤橘」が新たに誕生したのです。

 

〇摂関氏~「将門」誕生

では、いよいよ、その「源」と「平」の「合戦」に、入りましょう。

 

現存史料上、最初の「源平合戦」が

935.源護一家vs平将門

平将門(たいらのまさかど)は有名で、前期の桓武帝-葛原親王の系統で、高棟王の弟という高見王の子、高望王の孫。

源護(みなもとのまもる)は一字名から嵯峨・仁明2帝系の源氏で、常陸国茨城県)の大掾(ダイジョウ)を務め、おそらく職権濫用で労役での開拓か、横領か、私有地を獲得していたようですが、息子3人と、将門を待ち伏せ奇襲したものの、返り討ちにされました。

その後、

939.源経基vs平将門

も将門の圧勝でした。源経基(みなもとのつねもと)は「清和源氏」祖、源頼光ら兄弟の祖父、のちに鎌倉幕府室町幕府を開く源頼朝足利尊氏のご先祖様で、この時は現職の武蔵国(むさしのくに。今の東京都+埼玉県)の副知事でした。

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